忘れてはいけない。もうひとつの「津波」。藤沼湖決壊と平和池水害


福島県須賀川市長沼地区にそのダムはあった。農業用の藤沼ダム。正式名称は藤沼貯水池。長年の水不足解消のため昭和12年に着工。 12年の歳月を経て終戦直後の昭和24年に完成。地元では「藤沼湖」と呼ばれ親しまれていた。平成22年3月11には農林水産省の「ため池百選」にも選ばれた。それから1年後の平成23年3月11日。東日本大震災によりダムは決壊。貯まっていた約150万トンの水が、土砂や木材を巻き込みながら、もの凄い勢いで下流にあった集落を襲った。死者7人、行方不明者1人、流失もしくは全壊した家屋19棟、床上床下浸水家屋55棟。記事には昭和26年7月に、京都府亀岡市で発生した平和池水害の「平和池水害伝承の会」から寄贈を受けたキキョウのストーリーが刻まれている。キキョウは亀岡市ゆかりの戦国武将明智光秀の家紋としても知られているそうだ。そのキキョウ5本を植樹し、二つの大災害が紡ぐ縁を育むとともに、教訓の継承に向けて決意を新たにしたという。慰霊碑も令和3年3月11日に設置を予定し、震災から10年の節目となる来年3月11日に完成・除幕式を行う予定だ。


チリ地震津波60年 新型コロナで一か月遅れの慰霊祭/岩手・大船渡市


6月24日新型コロナウイルスの影響で、一ヶ月遅れの慰霊祭が開催された。1960年南米チリ沿岸で発生した、観測史上最大マグニチュード9.5の超巨大地震は、巨大津波を引き起こし、その津波は約23時間後の5月24日に日本の沿岸部に到達。大きな被害を出した。特に岩手県大船渡市では国内最大の死者・行方不明者53名を数え、その教訓を後世に伝えるために、その翌年61年には加茂神社の境内に津波警報塔が建てられ、今回の慰霊祭ではその塔の由来を記した説明板の除幕式も行なわれた。今回その塔の土台の幅が5m、塔の高さが24m、チリ地震津波襲来の5月24日にちなんで建てられていることを初めて知った。東日本大震災でも多くの命を救った大船渡加茂神社。ぜひ一度足を運んでほしい。

https://news.ibc.co.jp/item_39830.html


月命日(双葉町産業交流センター)


今日6月11日は東日本大震災から9年3ヶ月目の月命日。福島県は双葉町の被災伝承・復興祈念ゾーンに整備中の①福島県復興祈念公園②アーカイブ拠点施設③産業交流センター④海岸堤防・海岸防災林のうち、③の産業交流センターが新型コロナウイルスの影響により、今夏オープン予定が、今秋オープンに変更となった。双葉町によると産業交流センターは地上4階建鉄骨コンクリート構造で、売店や会議室、町民の一時帰宅や滞在、交流の促進などの用途が想定されており、隣接する②アーカイブ拠点施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」との連携も期待される。なお、②アーカイブ拠点施設の伝承館も、新型コロナウイルスの影響により、今夏オープンが今秋オープンに変更となっている。ちなみに、同センターが立地する双葉町大字中野字高田地区は、津波被災地でもあるため、津波避難ビルの機能も併せ持つ。双葉町産業交流センター→ https://www.futaba-fukkou.jp/archives/2601

双葉町産業交流センター
双葉町大字中野字高田地区に整備中の「双葉町産業交流センター」外観(2020.5.12撮影)

平成31年度東日本大震災女川町追悼式


東日本大震災から8年。平成31年3月11日(月)午後2時より東日本大震災女川町追悼式が、今年も女川町総合体育館大体育室にてしめやかに執り行われました。当日は強い雨模様の中、在京インド大使館からはサンジャイ・クマール・ヴァルマ駐日インド全権大使の代理として、ラージ・クマール・シュリヴァスタバ首席公使が、昨年度に引き続き来町されて、代表献花に臨まれました。会場に到着するまでの間に、地元の小さなカフェ「おちゃっこクラブ」に立ち寄り、地元の方々から当時の地震と津波の様子や、津波ご遺族の方々のお話に耳を傾けていらっしゃいました。また、震災当時のインド国家災害対応部隊NDRFの、女川町での活動をよく知る、おちゃっこクラブオーナー岡裕彦さんからは、当時のお話をうかがうとともに、インド隊に対して感謝の言葉もいただきました。

  • 追悼式中継
  • 代表献花
  • 平成31年度東日本大震災女川町追悼式

月命日(東日本大震災八周年追悼式について)


2月11日は東日本大震災から数えて7年11ヶ月目の月命日。来月で8年目を迎える。それに際して、 日本政府は平成31年㋀22日に 「東日本大震災八周年追悼式の実施について」閣議決定した。

開催日は平成31年3月11日(月) 。開催場所は例年通り 国立劇場。開催趣旨は『東日本大震災は、被災地域が広範に及び、極めて多数の犠牲者を出すとともに、国民生活に多大な影響を及ぼした未曽有の大災害であったことから、発災8年を機に、国として、被災者を追悼する式典を開催するもの』としている。詳しくは下記の内閣府ウェブサイトをご参照ください。(2019/02/11時点では詳細は後日掲載予定とのことです。)
https://www8.cao.go.jp/tsuitou/tsuitou.html

以上、内閣府ウェブサイトより一部加工加筆および抜粋。

なお、それぞれの被災自治体の追悼式については、おのおのの自治体の情報を参照されたい。


仙台防災未来フォーラム2019

仙台防災未来フォーラム2019


仙台防災未来フォーラム2019
  • 今年のテーマは「マルチステークホルダー私たちが知る・行動する防災の未来へ」。今年は「地域主体の防災・減災」「経験と記憶を伝える」を意識したプレゼンテーション(約1時間)を仙台国際センター展示棟で行います。https://sendai-resilience.jp/mirai-forum2019/



月命日(海外の地震)



10月11日は東日本大震災から数えて7年7ヶ月目の月命日。今朝は日本時間の早朝からM6~7クラスの地震が相次いだ。場所は以下の通り。


両地震ともに震源が約33㎞と浅く、津波の発生する恐れがあったが、幸いにも若干の海面変動で事なきを得た。ただ、遠隔地とはいえ、同じ環太平洋沿岸で発生しているのは気になるところだ。

ところで、今年も10月20日にインド女川学会が開催される。詳細はまた追って上げることにするが、震災の教訓を語り継ぎ、今後の防災減災を考えるキッカケになればと思う。(了)


月命日(7年前と7年後の女川町)



今からちょうど7年前の女川町。国道沿いには大量の瓦礫の山。この場所で女川湾から1km以上の地点。震災前はここから海も見えなかったし、住民でさえここまで津波が来るとは誰も思わなかった場所。それがこの付近。しかも到達した津波の高さは有に15m以上。場所によっては20mを超えていた。その様子は山の法面に付着した瓦礫や布などによって見てとれた。その凄まじさは津波の高さまで打ち上げられた住宅の屋根や車などが物語っていた。

宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜国道398号線(女川街道)付近 Around Route 398, “ONAGAWA KAIDO ROAD", Washinokamihama, Oshikagun Onagawacho, Miyagi Japan
宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜国道398号線(女川街道)付近
Around Route 398, “ONAGAWA KAIDO ROAD”, Washinokamihama, Oshikagun Onagawacho, Miyagi Japan

今、女川の町は急ピッチに復興が進んでいる。ここと同じ場所もかさ上げ工事が完了し整備され、新しい土地の上に災害公営住宅が建てられ、先々月末ようやく被災住民にその鍵が手渡されたばかりだ。7年後の3月11日。同じ場所に降り立ってみると、そこには新しい町があった。以前の面影はわずかな手掛かりを残すのみとなっていた。あの日あの時のことを想像すらできない。

 2018年3月冒頭の写真とほぼ同地点の様子
2018年3月ほぼ同地点の様子

話は変わって、先月下旬初めてタイ王国プーケット島のカマラビーチを訪ねた。今から14年前に起きたスマトラ島沖大地震の津波と被害を忘れないための津波祈念公園があるビーチ。ビーチに着いてもその当時の面影は全く無い。何があったのか想像もできない。もちろん防潮堤もない。でも、教訓はしっかりと生かされていた。津波危険エリアの明示と避難経路の確保。津波警報システムの導入などにだ。そして、その時に一番心に響いたのは実際の当時の写真だった。写真は良きにつけ悪しきにつけ雄弁だ。ありのままの現実をそのまま突きつける。でも、それは災害を他人事ではなく、自分事として考える一つのキッカケでもあり、またその事実が防災や減災について考える原点でもあることに改めて気づかされた。

時間とともに、記憶とともに、時代とともに、風化は進む。でも、決して忘れてはいけないこと。語り継いで行かなくてはならないこと。冒頭の写真が自分を守り、他人を守り、家族を守り、仲間を守る。災害から生命や財産を守る。そのことを考えるキッカケとなって貰えると有り難い。そして、新しく生まれ変わった町、女川へ皆に来てもらえると嬉しい。7年と1ヶ月の経つ東日本大震災の被災地は、まもなくその時を迎える。

当時目測で高さ30mほどはあった山の法面はその半分ほどに。一部法面の先端が地上に出ているだけだったので、かろうじてそこがどこであるのかわかる程度にまで、かさ上げ工事は進んでいた。場所の特定をするためのそれが唯一の手がかり。奥に見えるのは荒立災害公営住宅。
当時目測で高さ30mほどはあった山の法面はその半分ほどに。一部法面の先端が地上に出ているだけだったので、かろうじてそこがどこであるのかわかる程度にまで、かさ上げ工事は進んでいた。場所の特定をするためのそれが唯一の手がかり。奥に見えるのは荒立災害公営住宅。


月命日(女川町、集合型災害公営住宅の整備完了 荒立住宅で入居式)



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宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜字荒立付近 Around Aradate, Aza, Washinokamihama, Onagawa-cho, Oshika district, Miyagi Pref.

今日は震災から6年11ヶ月目の月命日。来月で丸7年を迎える被災地は今。先月末に嬉しいニュースが入って来た。

女川町、集合型災害公営住宅の整備完了 荒立住宅で入居式 | 2018/1/29 – 河北新報 https://this.kiji.is/330464601417663585

先月28日に荒立地区のかさ上げ工事が終わり、すべての集合型災害公営住宅561戸が完成し、そのうち60戸の「荒立住宅」の入居式が行われたといった内容のものだ。あの日あのとき。それまでの生活があった。これからふたたび新しい生活がはじまる。でも、被災地全体からみれば、それはまだほんの一部。訪れるたびに変わる女川。またその地に行って、この目でたしかめて来よう。まもなくそのとき。合掌


月命日(女川町消防団出初式|津波避難の合言葉)



2018年1月5日女川町消防出初式が新しく整備されたJR女川駅前を中心に開かれた。女川町の出初め式は東日本大震災後、女川魚市場周辺で行ってきたが、今年は復興が進む町中心部に会場を移して初めて実施。震災後これまでは規模を縮小して行なわれていた行進出初式も、今回は110名の消防団員と15台の車輌を動員して行われ、そのパレードも復活した。最後には写真にもあるように色とりどりの一斉放水がイベントに花を添えた。

あの日あの時。インド隊と女川町消防団は現場で連携して行方不明者の捜索に当たっていた。事前の取り決めとして、行方不明者が発見された時は、まずは現場にいる警察に報告、そして現場での検証が済むと、女川町消防団の車両の出番となる。ブルーシートに包まれた行方不明者を車両に載せて、ご遺体を遺体安置所まで運ぶ。その役割をこの車輌が担っていた。

女川町消防団の緊急車両
女川町消防団の緊急車両

あれから今日で6年と10ヶ月。町とともに町の組織も徐々に整いつつある女川町。最後に女川消防署のこちらの標語をご紹介して結びとしたい。
(以下、女川消防署HPより一部抜粋)

津波避難の合言葉は・・

みなさん、子どものころ、火災避難訓練の時に、合言葉として「おはし」(「お」 おさない・「は」はしらない・「し」しゃべらない)と教えられ、避難した記憶 があると思います。

そこで女川消防署では津波避難の合言葉として「ひもでひく」を提案し今後 の津波での被害を食い止めたいと考えています。

○ひ ・・「避難を呼びかける」 避難しながら周りの人達に避難を呼び掛けてください。

○も ・・「戻らない」 一度避難したら自宅等に忘れ物をしても絶対に戻らないでください。

○で ・・「できるだけ高い所に逃げる」 津波の高さは予想を超えることがあります。できるだけ高い所へ逃げてください。

○ひ ・・「引き止める」 自宅等へ戻ろうとする人がいたら、戻らないように止めてください。

○く ・・「車に頼らない」

車で避難しようとすると渋滞が起き、避難に時間が掛かってしまい ますので、車での避難はできるだけ避け、徒歩や自転車等で逃げる ようにしてください。

(了)